前田恵理子: 第一線の放射線科医で患者である私の当事者研究

東大病院の放射線科医として循環器画像診断や医療被ばくを専門としています。患者と中高時代以来の超重症喘息と闘いながら受験やキャリア形成、結婚・妊娠・出産を乗り越えてきました。2015年以降肺癌(腺癌→小細胞癌への形質転換)を6回の再発、4回の手術(胸腔鏡3回、開頭1回)、3回の化学療法、2回の放射線治療、肺のラジオ波焼灼、分子標的薬治療により克服しました。脳転移と放射線壊死による半盲、失読、失語も日々の工夫で乗り越えています。医師・当事者としての正確な発信が医学の進歩に帰することを願っています。

第11章 ① 八王子の山の中で

※第10章まではPassion 受難を情熱に変えて part 1 &2 (医学と看護社)をご覧ください。

 中央道から高井戸インター、永福料金所を経て首都高速4号線に入ると、新宿の高層ビル街やドコモタワーが目の前で大都会を主張するようになる。まもなく中央環状線に入るための西新宿ジャンクションだ。文京区の自宅に帰るためには、ここから中央環状線を北上することになる。隣では息子がスースー寝息を立て、後席では夫がのびている。自分を入れて3人の命を預かっていることを確認し、ハンドルを握り直す。

 まるでジェットコースターのような、この長い下り坂で合流する本線には、羽田や京浜工業地帯からの多くの車が2車線を占拠しながら、高速で走っている。右カーブしている本線の先で右側から合流する、しかもジャンクションの勾配が急という無茶苦茶な構造のために、合流直前まで互いの交通量はわからない。運転者は、坂の下で本線の交通量が見えたら瞬時に、限られた情報から自分の入るべきスペースを見つけて合流しなくてはいけない。今日はいつもにも増して車が多かったが、真横に並んでしまった本線の車を先に行かせ、パッと左に入り込み、ギュンと加速して後ろの車を引き離すことで、自車のスペースを確保できた。ふぅ。
 こうして家族を乗せて、夫の実家のある八王子を往復するのは、結婚以来10年間、私の役割になってきた。夫も運転免許を持っているが、ペーパードライバーに毛が生えた程度しか運転していないため、生き馬の目を抜く首都高の合流を任せるのは無理だろうと諦めている。本当は10年前から交代でやってくればよかったのだが、あのジャンクションがあるがためになかなか任せづらく、私ばかりが経験値を積む結果となってしまった。特にここ半年は、親戚の畑の一角を借りて家庭菜園を始めたため、首都高速を走る頻度も格段に増えている。これははじめの作戦を間違えたかと自問自答するも、後の祭りである。

 2019年のゴールデンウィークに始めた菜園は、3人共通の趣味を持たなかった我々家族に、新しい風をもたらした。まず、四方八方を山の緑に囲まれて、青空の下で行う土いじりは、人工物に囲まれて過ごす都心の日常で失われた、人間の根源的な生命力を呼び起こしてくれる。しかも農作業は共同作業である。規模は小さくとも、毎週自然の中で畝づくり、植え付け、水やり、誘引、芽かき、人工授粉、草むしりや収穫などを行い、ともに汗を流すのだから、家族の絆が強まらないほうがおかしい。
 また、野菜の育ちは多くの話題を提供してくれる。10月の今は、4畝の畑に先月植えたブロッコリーの苗が育っているほか、ミニトマト、パプリカ、キュウリが残っている。10月にもなれば、普通夏野菜は終わりを迎えるのだが、いまだに盛夏の暑さが続いているため、野菜たちは延々と元気な実をつけ続けている。こうなると人間のほうが抜くのが忍びなくなってしまい、冬野菜に移ることができない状態が続いている。それはそれで悩ましいのだが、来週は台風対策としてキュウリの支柱を補強しようか、とか、風にやられるに任せたほうが冬野菜に移行する踏ん切りがつくのではないか、とか、そろそろ白菜を植えないと結球しないのでは等と、前田家に無限の話題をもたらしてくれるのである。

 極めつけは、大地の恵みを囲んむ「収穫ご飯」である。自宅に帰って収穫袋を開けると、キュウリ12本、色とりどりのミニトマト50個以上、パプリカ8個が、ピチピチの肌をこちらに向けている。キュウリは、透明感のある短い棘に囲まれ、先端にはドライフラワーになった黄色い花びらが付着している。これは手を加えないほうがおいしいに決まっている。ごはんを炊き、親戚の畑で掘らせてもらったサツマイモとわかめの味噌汁を作り、さつま揚げを軽くあぶるだけで今日の料理はおしまい。収穫物を洗ってザルに盛り、塩とマヨネーズとみそを添えて食卓にどどんと出すと、家族の笑顔が集まってきた。幸せ、ここに極まれり。

 2019年といえば、3回の再発を乗り越えるために、1月から9月にかけて手術、化学療法や放射線治療を繰り返していた時期に一致する。強力な治療で削られた体力を取り戻し、家族の力を高めて闘病を助けてくれた立役者は、実は畑だったかのかもしれない。