前田恵理子: 第一線の放射線科医で患者である私の当事者研究

東大病院の放射線科医として循環器画像診断や医療被ばくを専門としています。患者と中高時代以来の超重症喘息と闘いながら受験やキャリア形成、結婚・妊娠・出産を乗り越えてきました。2015年以降肺癌(腺癌→小細胞癌への形質転換)を6回の再発、4回の手術(胸腔鏡3回、開頭1回)、3回の化学療法、2回の放射線治療、肺のラジオ波焼灼、分子標的薬治療により克服しました。脳転移と放射線壊死による半盲、失読、失語も日々の工夫で乗り越えています。医師・当事者としての正確な発信が医学の進歩に帰することを願っています。

第11章 ② 自然の脅威

 その頃、日本のはるか南のマーシャル諸島付近では、怪しい渦は次第にまとまりを増して西に向かっていた。衛星写真を見ると、赤道のすぐ北には、もくもくとした雲が東西に並んでいる。衛星写真を毎日見ていると、その中でどれが台風になりそうなのか、わかるようになってくる。空に漂う、のんびりした表情の雲の端に、流れるような雲の筋が見えてきた後、あたかも神に意思を与えられたかのように、複数の筋が中心部に向かって渦を描き始める。雲の一部で始まった渦形成はやがて雲全体に広がり、遂には生き物のような、明瞭な目を持つ台風になる。台風の被害は嫌だが、この台風が発生する過程は、何度見ても神秘的で、美しい。

 でも、いざ台風が来るとなれば、「美しい」「神秘」などとのどかなことは言っていられない。畑から帰った夜、ヨーロッパ中期予報センターは、あの渦が今後最盛期915ヘクトパスカルの勢力に発達し、940ヘクトパスカルほどの勢力を維持して西日本から東日本のどこかに上陸するという予想を発表した。室戸台風伊勢湾台風に匹敵する強さである。西日本や東海なら大丈夫というわけでは決してないが、万が一東日本を直撃した日には、大きな被害が出るだろう。東日本にやってくる台風は、大抵関西に上陸して弱まった上に、日本アルプスでさらに弱められたものが、足早に駆け抜けていくのがスタンダードである。太平洋で直前までエネルギー補給された台風が、そのまま直接上陸することはめったにないのだ。
 翌日の日曜日には、ヨーロッパ中期予報センターの予報は、東海地方に上陸したのち静岡県沿岸から関東を直撃という予想を「本命」として発表した。まだ、台風が「発生」してもいない段階でここまでの予測を発表できるのだから、すごい技術である。直撃は来週の土曜日、10月12日になりそうだ。学会シーズンの土曜日で、多くの学会・研究会が予定されている。私も、横浜の小児循環器の会で講演をすることになっていた。本当に940ヘクトパスカル級の台風が直撃するなら、公共交通機関は計画運休となり、研究会どころではないはずであるし、自分と家族の命を守るための行動や備えを始めなくてはならない。危機感を伝えるため、私はSNSにて海外の気象機関の情報を集めて発信することにした。そもそも台風が発生していなかったために、この段階では日本の気象庁から何の情報提供もないのである。
 つい3週間前に、千葉県に甚大な暴風被害と大停電をもたらした台風15号の記憶が新しかったせいか、SNSを読んだ医者仲間の反応は早かった。研究会を早々と中止し、土曜日の診療方針を決め、当直表を組み替えて近くに住む者だけで対応できるようにするなど、続々と対応した旨のメッセージを受け取った。影響の大きさに、空振りだったらどうしようと一瞬怯んだが、世界で一番信頼性の高いヨーロッパ中期予報センターの情報なのだから、伝えないほうがデメリットが大きいと思いなおし、発信を続けることにした。
 翌日、ようやく「発生」した台風は、あれよあれよという間に急速強化を果たし、たったの1日で915ヘクトパスカルに達した。カテゴリー5のスーパータイフーンの誕生である。台風は北に向きを変え、温かい海から大量の水蒸気を吸収して猛烈な勢力を維持したまま、真っすぐ関東地方を目指しだした。3日後の水曜日には、気象庁台風19号に早めの備えをと会見し、注意喚起を行った。
 台風15号の経験から、世間は暴風被害ばかりを気にしていた。これは無理もないことだが、私は台風の巨大な雲塊が北上するにつれ、「ため込まれた膨大な水蒸気はどこに行くのだろう?」と考えて空恐ろしくなってきた。秋は、夏の暖かく湿った空気と、冬の冷たく乾いた空気のせめぎあいの季節である。今は夏のように暑い日が続いていたとしても、日本のすぐ北には、もう冬の空気が迫ってきているのである。その冷気に、大量の水蒸気が接したら・・・。あるいは水蒸気が山を駆け上がって冷やされたら・・・。

 豪雨になるのは決まっていた。

 そして山に降った大量の雨は、最終的に関東平野を作り上げた大河に流れ込むのだ。川が平野を作り上げるプロセスは、氾濫の繰り返しを意味する。氾濫は自然の営みの一部であるし、それによって山の土の養分が平地にもたらされる、自然の恵みでもある。でも、都市化された現在の関東平野で「氾濫は自然の恵み」などという言葉は通用しない。
 どんな豪雨になるのか。その手掛かりを知るために、インターネットに公開されている何枚もの専門的な天気図を読み比べていくと、恐ろしいことがわかってきた。秩父山地の雨量は500mmをゆうに超えそうで、荒川決壊の目安である550mmを上回る可能性がある。これだけでも深刻なのだが、大量の水蒸気を含む雲域が巨大なため、関東より北の地域のほうがむしろ雨雲がかかる時間が長く、北の冷たい空気にも近いため、長野、北陸や東北でも相当の総雨量が予想された。これは西日本豪雨並みの広域災害になるかもしれない。このことを認識してからは、上陸までの2日間は、豪雨警戒情報に徹してSNSを更新し続けた。
 実際の被害はご存じのとおりである。13もの都道府県で100名近い犠牲者や行方不明者を出し、多くの方が負傷された。河川の氾濫、決壊や土砂災害により、住む場所を失った方も多い。また、収穫期に重なったために、金額的には史上最悪の農業被害になってしまった。2020年2月19日、台風19号は「東日本台風」と命名され、同時に命名された台風15号(房総半島台風)と共に、42年ぶりに名前の付いた台風となった。
 多くの方から、私の発信を読んで避難した、あるいは家族を避難させたと連絡をもらった。甚大な被害を前に、あまり喜ぶ気持ちにもなれなかったが、趣味で多少詳しくなっていた気象の知識が、人助けになったことは本来喜ばしいはずのことだった。趣味が役に立つなら、もう少し深めてより良い情報発信につなげられないか。
 1か月かけて悩んだ末、私は一つの決断をした。